1st. Black-indie! 『極限1,000日』の全貌。
■ “ぶれず” “媚びず” “染まらず”
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△2009年12月次点での写真。東京・渋谷『コミオデ』会場にて監督を中心としたスナップ。 |
究極の映画祭!Black-indie!(ブラック・インディ!)は、ただ単に「作品の良し悪し」を競って評価する「一般的なコンテスト形式の映画祭ではない」という事を理解せねばならない。
Black-indie!に選出された監督自身が主体となり、創りたい映画作品の企画・原作・脚本・キャスティング・制作スタッフ集めから機材集め、ロケハンから撮影〜編集〜完成までの“全工程”を“お金ありき”ではなく、“時間”と“人(スタッフ)”と十分な“人間力”を発揮し“完全自主製作体制” で “最後まで”やりきるという、“究極の映画祭”である。
いわゆる、商業映画(監督)のように監督報酬を得て、有名キャストありき、予算ありき、配給ありきで映画作品を制作する事ではないと言うことだ。
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△事務局担当者からの説明を聞く監督たち |
また、最後までやりきり作品が完成したとしても、“売れる保証”も“売ってくれる保証”も皆無であることもルールである。監督自身によほどの「覚悟」と「自信」が無ければこの映画祭にはとても参加できない。
監督自身が本気で、本当に「ぶれず・媚びず・染まらず」に“完全自主製作体制”で創りたい作品を創りきれたのか・・・
まさに“人間力”が試され、最後には『己の魂に勝ち抜いたか否か』が総合的に評価対象となり、作品を観た観客が最終的な評価を下すことになるという。
■伝説の自主映画祭「インディーズムービー・フェスティバル」のDNAを引き継ぐ「ブラック・インディ!」
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△熱く語る監督と役者たち |
北村龍平監督(『VERSUS』『あずみ』等)など、数々の監督を輩出した全10回限定開催の“幻”の自主映画祭『インディーズムービー・フェスティバル』(IMF:1996年〜2008年の12年間)のDNAを引き継いだ“究極の映画祭”『Black-indie!』が、IMF終了後の2008年12月、間髪入れず“参戦監督”の募集告知が開始された。
その選考方法やルールは非常に厳しく後ずさりするような、一見「理不尽」とも思える募集(ルール)要項にも関わらず、その主旨に共感したのか、全国から65名もの無鉄砲な挑戦者の参加申込があり、独特な厳しい書類審査を潜り抜けた30名の監督が選抜された後、事務局プロデューサーとの幾度の個人面談(話合い)を経て最終的に12名の監督が選出され、『1st. Black-indie!』の闘いの火蓋が切って落とされた。
■初の試み『合同オーディション』から動き出した
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△監督の熱弁を聞き入る応募役者たち |
参戦監督決定からほぼ半年後の2009年10月、オーディション専門誌及びインターネットなどにより『監督合同オーディション』へ全国から800名を超える役者の応募が寄せられた。監督たちはその数に驚き、大興奮・有頂天になったと“苦い”想い出のように話す。
確かに無名監督である自主制作映画で、これだけの多くの応募が寄せられたことは前代未聞であろう。
12月、東京・渋谷で開催された『監督合同オーディション』では役者が直接、複数の監督(作品)に自分を売込むことができ、お互いの想いを確認し合えるという画期的なコミュニケーション・オーディション『ブラック・インディ!ナイト/プレ合同オーディション(通称:コミオデ)』にも400名超の参加者が会場に押し寄せ、熱気さめやらぬままガチンコのコミオデは無事に終了した。
それ以降も東京・愛知・大阪・京都・山形など全国各地でも『監督(作品)単独のオーディション』等が行われ、次々と役者が決定した各組(制作チーム)は次々とクランクイン(撮影開始)へ突入して行った。
■12監督から8監督(作品)が苦渋なる4年間を経て最終ラウンドへ
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△完成後のやりきった監督たちのショット |
映画祭のプロデューサーは、当初は「2〜3名位しか残らないだろう」と予想したと言う。しかし4名だけの脱落で留まり、8名の監督が苦しみの4年間をやり抜いた事には正直驚いているとも言う。
この8名の監督は途方もなく想像すらしなかった4年間で「創りたい映画作品を制作する」という、「己が決めて立ったステージ」を降りることなく、最後までやりきったことには感無量である。
苦しみ・悩み・迷い・泣き叫んだ『1,000日を超える極限の日々』を闘い抜いて“完成”に至り、遂に最終ラウンドである『プレミア上映(最終試写審査)会』に辿り着いたのだ。